7:アルファを選択する-その2(1997/11/14)

 「アルファである」か否かの基準は人それぞれだと思いますが、僕の場合はまず最初に「コイツが金をかけて開発した部分に金を払う価値があるか」そして「今の自分はコイツに乗ってもいいのか」と自問自答させられるオーラを発散させているかどうかです。こう書くとあまりに自虐的に聞こえますが、アルファの本質を引き出すのはドライバー自身であるという点を、強烈にアピールさせられるものでなければ、僕にとってはアルファを選択する意味がないのです。

 フェラーリなら経済力に応じて買っても、エンツォも草葉の陰で喜ぶでしょう。でもどんなにお金持ちでもそれだけではアルファに乗れるとは限らない、自分がコイツを駆れる程、クルマを知っているのか、このエンジンを使い切って走れるのか?そういう、自分への鏡になるような答えを出してくれる空気を、アルファに求めていました。誰にとっても、つまりクルマが好きでも好きでなくてもすぐ分かる快適さやアドヴァンテージというのは、僕には不要だったのです。というか、それが嫌だからこそアルファに乗りたいとずっと思いながら、最大公約数的なクルマをずっと選択していました。

 そういう意味で、僕にはアルファはクルマというもののノスタルジーを刺激するものでなければならなかった訳です。アルファでなければ手にはいらないものとは、性能や出来映えではなく、異種コンセプトと、誰も考え付かなかった最新の技術なのです。しかし155は、オペルやシトロエンの様に、ちゃんとできた、快適で水準の高いグローバルカーになっていました。いつでも買えます。誰でも速く走れそうです。恋焦がれて、自分の経済力や社会的ポジションに合わせて買うクルマではなく、初めてでも何の違和感もなく乗れ、「ああこれがアルファか」と簡単に認められる...それがクルマの完成体であり、アルファが存続してゆくには決して欠くことのできない条件であり、アルファがそれを実現した、このことに僕は拍手を送りながら、同時にうなだれつつ、異種的なコンセプトを完全に捨て去ろうとしている新アルファ製ベルリーナに別れを告げなければならないというジレンマを感じ、遅く生まれすぎた自分を恨む結果になってしまいました。こういう小難しい事を考えてしまう自分には、イタ車よりも本当はイギリス車の方が似合っているのかもしれないと思いつつ。

 

 最近、156の開発コンセプトを耳にする機会を得ました。156はますますグローバルカーを目指し高く評価されています。遂にアルファも「クルマ」というものの持つ、今のスタンダードトレンドに追い付いたのだと思いました。憧れや自己満足ではなく、必要性や社会性に応じて買う顧客も味方に付けなければならない、そのコンセプトはアルファの企業としての将来に明るい展望を開くでしょう。アルファは遂にマーケティングと評論家の冷徹な批評に耐えうる出来映えを手に入れた。要するに、僕はアナクロニストだったのかもしれません。そんな訳で僕は次の日から、決して性能は良くないが「オマエにオレが扱えるか?」という強烈な問いかけをしてくれるアルファを、中古車の中から探し出す旅に出ました。



8に続く