27:アルファの苦悩(1998/02/15)

 ところで先日、借りている駐車場の大家さんと話す機会がありました。大家さんは60を過ぎた女性です。もの静かな人で、おおよそクルマには縁のなさそうな雰囲気の人です。その大家さんがAlfettaの事を指して「愛着の湧きそうなきれいなクルマですね」と言ってくれました。
 これを聞いて、僕はふとある事を思い出しました。実家に帰省するたびに、母親から「趣味のクルマなんてよして、実用車に乗りなさいよ」と言われていたのです。父親は少し変わった所に目がいってました。「このクルマ、圧縮比はどのぐらいあるんだ?」元々エンジニアですから見るところは違うとは思いますが。
そうした年配の人々との何気ない会話を通じて感じた事があります。

 それは、クルマの話になると、むしろ同世代のクルマに興味のない人よりも、50〜60を過ぎた年配で、しかもクルマには興味がない人の方が、クルマという機械、道具を的確に見ているという点でした。もちろん、彼等は「AlfaRomeo」というクルマがなんたるかなんて事は知りません。でも、若い世代の、クルマに興味のない知人の中で「デザイン」とか「イタリア」についてはオーナーよりも詳しく、イタメシやヴィーノに精通しつつも、クルマに対しては投げかけてくる質問や疑問の殆ど全てがトンチンカンなのに比べ、年配の人々は興味のあるなしに関わらず、ずっとクルマの本質を突いた質問や感想を述べてくるのです。

 彼等に共通している点は「クルマには実用と趣味の両方の使い方がある」ということをかなり明確に意識しているということです。これには正直言って驚きました。彼等はモータリゼーション全盛の頃に青春時代を過ごした世代です。でも2台も3台もクルマを持てなかった時代の人が、なぜそういう概念を持てるのか、僕は今だに不思議でなりません。そして同時に、我々の様な、当り前の様にクルマの恩恵に浴している世代の方が、クルマについての見識や価値観が浅いというのはどういう事なのでしょうか。もしかしたら、ドキドキするようなクルマが年々少なくなっている事と深い関係があるのかもしれません。僕はその答えをいつか見つけてやろうと思っています。

 それはともかくとして、古いAlfettaのある生活は実用的な見地からすると幾分疲れる事は前に書きました。現代の音もなくするする走るクルマに慣れた身にはことさらでしょう。たぶん、他人には勧めないでしょう。たった3年ほどの付き合いでも「もう手放すぞ」と何度思ったか知れません。  でもこれが普通のクルマなら「もう飽きたから」とか「故障が続くようになったから」という理由で簡単に買い換えを考えるものです。ところが、Alfettaは買った当時からほぼ3日毎に「どうしよう」と考えさせられるクルマです。故障とか負担という意味ではなく、アルファというクルマにこだわる自分と、クルマを冷静に見つめる自分との葛藤で疲れてしまうのです。ところが今だに乗っている。喜々として乗っている。維持費だってとっくに新車の一台も買える位になったかもしれないというのにです。

 ひとつだけ確かに言えることは「持った者だけが本当の意味でアルファロメオを知る事ができる」という事でした。どんなに雑誌を読んでも、ディーラーやショップに足を運んでも、アルファの魅力が見えたつもりでも実は何一つとして他のクルマとの違いは見えてきません。もし見ているだけで分かる様な魅力だとしたら、それはカローラやシルビアに蛇のマークを付けても同じという事が言えます。アルファの魅力とは、自らステアリングを握り、日常の足とし、いつもの道でステアリングを切った瞬間に「他とは全く違う!」と気付くものだと僕は思います。決して速いクルマな訳ではありません。快適な訳でもありません。見た目に取り立てて素晴しいクルマな訳でもありません。しかし、言葉には言い表せない「全てが違う」というその一瞬に価値を求める事ができるのなら、アルファは一生の友達にすることができるでしょう。そして、「素晴しい!」と思う瞬間と同じぐらい「もうヤだなあ」と思う瞬間が襲ってくる事は確かです。何がイヤなのか、明確な理由が見つからない時もあります。でも、イヤになったからといって、本気では決して売り飛ばしてしまえという気にはならないのです。手をかけなくちゃ、部品を交換しなくちゃ、ちゃんと走るのにも関わらずです。
 まるでカルメンに翻弄されて身を持ち崩すドンホセのように、いつしか僕はAlfettaに夜も昼も手をかけなければならないという強迫観念に囚われ始めていました。



28に続く